物に魂は宿る?
少々オカルトちっくなタイトルでこんにちは。(笑)
六つ季の家では、銅器を始め古い生活用品まで様々な物が置いてあります。
「物」は動かないし、喋らないし、息もしない。
生命体として生きていないのは事実です。
…ですが、先日六つ季の家のオーナーがこんな興味深いツイートをしていました☟
【オーナー】そういえば半月ほど前に辻又の隠れた名所、千手観音さまを見せて頂いた。
— 南魚沼百年古民家・六つ季の家 (@mutsukinoie) 2018年4月15日
想像よりもずっと像の状態は良く、しかし観音さまの手がとれてしまっている状況でもありしっかり修復したいところ。何か方法はないものか。ちなみにこの観音さま、、(続く) pic.twitter.com/cuyJP3Wnqe
(続き)この観音さま、個人の管理という事情があり一度辻又を離れて祀られていた時期があるそうです。が、毎晩毎晩新しい管理人の夢に出てきては辻又に帰りたいと泣いたんだとか。
— 南魚沼百年古民家・六つ季の家 (@mutsukinoie) 2018年4月15日
遂には辻又に戻ってきたという話。
なんとも心打たれる実話。観音さまの想いに応えたいと思う今日この頃です。
【オーナー】観音像といえば六つ季の家には #本間琢齋 造の魚藍観音像があったりします。
— 南魚沼百年古民家・六つ季の家 (@mutsukinoie) 2018年4月15日
福福しいお顔に思わず笑みがこぼれそうになります☺️#蝋型鋳金#本間琢斎#骨董#佐渡島 pic.twitter.com/fuE1bQB2Ps
物って、生きてないけど生きている。と、私は昔から感じていました。
この観音様のエピソードは、絶対に観音様が想いを訴えたとしか思えません。
物は、誰かしらの手が加えられ、誰かの手に渡り、人と共に過ごし…。
その中で自然と物に魂が宿るような気がするんです。
そういうふうに感じていると、更に物に対して愛おしい気持ちが増して、大切にしようと思えるんですよね。
【オーナー】骨董品を求める時に「完品」(この場合「無傷」の意)を求めたいのはある意味当然だけど少しの欠けや傷はむしろその品物の歴史や生い立ちを想像する喜びがあると知る。完璧すぎるものやピカピカの新品にはない傷の凄みや温かみ。大切にされてきた君がよく僕のところに来てくれたね。#骨董
— 南魚沼百年古民家・六つ季の家 (@mutsukinoie) 2018年4月18日
人との出会いも、物との出会いも、全部ご縁なんだなあと感じている今日この頃です。
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